2010年3月30日 (火)

 中国に「寒さは風に在り」という言葉があると聞かされたことがある。 立春を過ぎ陽...

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2010年3月 2日 (火)

冬季オリンピックとチリ地震津波

 これまでこれほど冬季オリンピックが日本中を釘漬けにしたのはなかったのではないか...

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2010年2月 4日 (木)

立春

 冬型の気圧配置が続き降雪や冷え込んでいるものの、立春を迎え来週から温かくなりそ...

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2010年1月21日 (木)

阪神淡路大震災15年を節目に

 阪神淡路大震災15年から4日目、特集や報道などは皆無。 人々の関心は既に他に移...

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2010年1月17日 (日)

阪神淡路大震災から15年

 早いもので阪神淡路大震災からもう15年経つ。 壊滅的打撃を受けた神戸の街も以前...

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2010年1月12日 (火)

激動の’09年から混迷の’10年へ

 2010年も七草を過ぎ、10日戎も過ぎ正月気分から平常に戻った、というより現実...

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2009年12月30日 (水)

2010年へのカウントダウン

 年末番組ともなるとTVも各局特番を組んでいて再放送や特集番組も楽しみの一つでも...

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2009年12月29日 (火)

2010年へのカウントダウン

 事務所に配達される朝刊を取りに行きがてら昨日までのプラごみを出しておこうと事務所に行ってみたら入居ビルが年末休暇に入ったのか、主扉のシャッターが閉じられていた。 そうかぁ、30日から6日までを年末年始休暇の予定したのに、何故世話しない29日(火曜)からの休みに変更したのだろうと訝しげに思っていたが、ビルの管理会社に合わせて今日から休みだったのかと今更になって気付いた。
 
 今日は家の片付けでもやろうかと思いながらも、決めるのは自分でも何でも先送りの鳩山流についついなってしまうようでいけない。 定年を迎える前辺りからどうも計画に身体がついていかなくなって久しい。 ことに最近はグウタラに近くゴロゴロとしてしまう日もあって情けない思いがする。

 事務所から出す年賀状で故人の前職宛に一枚投函してしまった。 非礼を事前に後任の事務長にお詫びをと思っていたのに事務所からは架けられず帰宅してから架ける羽目になった。 昨日散髪から戻ったときに架けるつもりだったのに。 
 事務所に行ったお陰で少し身体がシャンとしたようだ。 何か背中を押されるものがないと動き難くなっているようだ。 
 昨年、左肩腱の断裂と矢張り左鎖骨骨折で半年内に二度も手術を受ける羽目に陥ったけど、鎖骨を固定する際のワイヤーの食い込み後なのか切り取られたものなのか未だに痛みともつかない違和感があるし、断裂した腱を付着してもらった箇所ではどうも炎症が起きているらしく時々疼痛がある。 原因はこの12月3日に受けたDupuytran拘縮の手術による負担が遠因ではないかと肩の担当医は言うのだが。 少しばかりのオペでも右掌の違和感がどうも憂鬱だ。 

 デュピュイトレン拘縮。 聞きなれないこの病はなかなか病名が呑みこめなかったが、どうして発症するのか原因が未だ分かっていないらしいが、女性に特に白人に多く発症事例がみられると執刀医は言う。 右掌の異常に気付いたのがこの春頃だったか。 掌を開こうとすると小指が開ききると同時にパチン!と薬指に張り付いてしまって開かない。 その時はエクセルで作表・作図をする際にマウスの掴み方がおかしいのかなと思いながら、肩の担当医に相談したら「暫く様子を見ておきましょう。開かなくなったらその時に」と、格別な指示はなかった。  

 その頃、事務所に出入りする日本生命のエージェントが左掌に包帯を巻いていたのでどうしたのかと尋ねたら、「ばね指になったので手術した」とのことで症状は自分とまったく同じもののようだった。 でも、まぁ自分はまだ軽症のようだし、いいか、と軽い気持ちでいた。 処が空きを過ぎる頃から立ち上がろうと両手をついても右手小指が開かないので三つ指つくようにしかできなくなって不便さを感じるようになって、あらためて肩の主治医に手術を受けさせてくれと頼んだら、専門医を紹介してくれ12月の3日に日帰り手術を受けた。 体験者も見ていた気軽さもあったし、何より部分手術で日帰りも可というお手軽さ。

 何せ利き手のこと。 直後にはボールでも握った感じの手だったが11日には抜糸してくれ次の週には包帯さえ不要とのことで順調だといわれたが、引きだしているいると言えど腫れは固く握るにも開くにも違和感がある。 指に伝わる筋を巻く腱膜を切って拘縮を解く手術だったけれど、小指の付け根辺りから掌に向けて中指辺りまでとそこから手首辺りにかけて切られたが傷口そのものはきれいに治りかけてはいる。 それでも小指や掌が冷えるとヒリヒリした感じが気持ち悪く、左手で温めながら結んで開いてを繰り返す。 意外と不便を感じる以上に何をする気も減退させる。 これが難儀だ。 

 4週目に入っている今は大分腫れも引いているようだけれど まだまだ凝りのような腫れが頑張っている。 物が当たれば痛む。 月曜に肩の主治医に報告がてら見せると順調すぎると持ち上げ、腫れは温めながらよく揉んだりすると良いとアドバイスしてくれた。 成程、執刀医が手はしっかりよく洗ってくださいと言っていたのはそのことかと頓悟した。 保護代わりのガーゼも小型のカイロをあてていたのもいいことだと推奨してくれた。 気のせいか一昨日よりも昨日。 昨日よりも今日のほうが腫れが引いているように思える。 

 

 今年も残すところあと二日。 何としても何をする気も起こさせない違和感の鬱陶しさと憂鬱から解放されたい。 なんとか50時間で。 今はマウスも掴める。 あと少しか。

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2009年12月25日 (金)

沖縄・名護市での SDAとの出会い

 日本マーチングリーグ締めのウォーキングは「やんばる名護」となっていて、ツーデー初日の夕方には開催地における歓迎会が表彰式レセプションということで初めて参加してみた。 日本マーチングリーグでのマスターウォーカー賞の表彰がどんなものだろうか、一度覗いてみようとの思いからだった。 殆どが各県で所属のウォーキング協会の仲間で参加している人が多いが、私の場合は自分勝手な性格がそうさせるのか常に単独での参加だったので敢えて歓迎会なぞには出たことがなかった。 自分の所属も大阪ではなく、意識的ではなかったものの結果的に日本ウォーキング協会所属となっている。 

 6時からとのことだったが、既に会場の室内競技場には多くのウォーカーが詰め掛けていて前倒しで始められていた。 顔見知りは殆どいなかったけれど、正面ステージではボランティアによる沖縄の民謡と踊りが披露されていて雰囲気だけを楽しんでみることにした。 

 名護といえば辺野古問題の渦中の地。 披露されている歌や踊りは元気で満ち満ちている。 半世紀近く前に訪れたときは、沖縄伝統の衣服での踊りを見たせいか何処となく寂しげだったが、今目の前で披露されている歌や踊りは現代風で、彼の問題の憂いや抑圧された何も感じさせない。 本土では基地問題を他人事のように論じている一方で、まったく南国の明るさで弾き返している姿に思わず涙してしまった。 

 二日目、21世紀の森ビーチの海辺・砂浜を歩いて名桜大学に向かう途中「三育中学 この先3キロ」という看板が目に飛び込んできた。 あぁ、此処にあったのかという思い、楢葉の三育キャンパスに向かう入り口に似ているなぁという懐かしさと小さな感激に浸りながら歩くことができた。 

 名護市の名桜大学過ぎて北上し嵐山ゴルフ場を東に向かうと嵐山展望台があって、展望台だから坂道を覚悟しながらもこれが二日目の楽しみの一つとしていた。 その途中、嵐山パイン畑があったが、それまでパイナップルとは椰子の木のような木に生るものだとばかり思っていたのに、西瓜や甘瓜のように畑に生るものと初めて知って目からウロコの思いだった。 

 嵐山展望台の給水ポイントでチェックと給水・黒糖のサービスを受け、せっかくの展望の地でそれらしい建物もあったので階段を上ってみて、そこから見下ろす見晴らしの素晴らしさに息を呑んでしまった。 我部井と沢岻の羽地内海に佐我屋島やヤンガナ島が松島のように浮かび、庭園のようでもあり遊覧船が北京の頥和園を連想させるものだった。 

 太平洋側からネオパークオキナワを経て名護市内に戻り、もう一つの見所は前日コースアウトして見落とした国指定カジュマル、樹齢200年の東江のミフクラギ、樹齢300年のフクギ群。 沖縄有数の産業の一つオリオンビールの名護工場では、二日間とも清涼飲料あるいは絞りたて生ビールの提供を受け、渇いたのどを潤していただいた。 

 帰路の那覇への途上では、西原ICの近くでアドベンチスト沖縄メディカル病院の建物が目に飛び込んできて、朝に見た三育中学といい沖縄に来ていたんだなぁという満足な気持ちになったのは不思議な思いだった。 

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2009年12月23日 (水)

沖縄・名護

 沖縄には復帰前の1968年の3月と1997年の9月の二度行ったきりで、目にしたものといっても那覇の周辺の観光程度であまりよく知らない。 三育にいた頃の同級生や先輩・後輩が多くいたので千葉から沖縄諸島への道のりや島での生活ぶりは聞いていたが、米軍占領時の昔の話。 

 返還前でドル経済下の那覇で印象に残っているのは、那覇の教会の人に連れられて行ったひめゆりの塔がある伊原第三外科壕。 沖縄師範学校所女子部と第一高等女学校の生徒で構成されたひめゆり学徒が米軍の投下したガス弾でその多くが犠牲となった現場でひめゆりの塔がある。 時間の関係もあったがとても崖下の壕に下りてまで見ようという気にはならず、碧く広がる海をただ眺めるだけだった。

 二度目は復帰後四半世紀も経っていて、日本化で観光を主にリゾート化しているという印象をもった程度のことだった。

 今回「やんばる名護ツーデーマーチ」に参加したのも、日本マーチングリーグの「日本マスターウォーカー」に認定されるという区切りになっていたので半ば仕方なく参加した。 折りしも普天間の移設問題が迷走しているさなか。 普天間とは、辺野古とはという単純な疑問も生じて、この機会に現地をよく見てみようという気になった。

 那覇から名護までの百キロに満たない距離を、普通の定期バスに乗ってしまったため3時間近くも掛かったが、通勤帰りや下校の生徒達の乗り降りが生活観を感じさせてくれたのでこれも良いかと流れる夜景とともに楽しむことができた。 東シナ海側を通って行ったが何○○ビーチという停留所が多く、それとともに立ち並ぶホテルや飲食店が暗闇に光を放って夜空と黒くなった海とを分けていた。 

 宿舎は名護バスターミナル手前の宮里3丁目にあったが、定期バスは名護市内に入ってホテルの裏道を通っていたので暗く人通りのない所で下車。 高速バスに乗っていれば案内地図のイメージどおりだったとホテルに着いてから分かった。 ホテル21世紀というのが斡旋された宿舎だったが、ホテル名に凄いリゾートホテルかと期待させたけれど実際は建て増しで繋いだワンルームアパートをホテル仕様にしている程度。 

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